コラム
2023.11.02

筑波大学教授 市川淳士 vs.東ソー・ファインケム(株)代表取締役社長 江口久雄
取締役研究本部長 長崎順隆

写真1(市川先生・江口社長)フッ素との出会いとその魅力

長崎: 市川先生は、「新たな結合形成のためにフッ素置換基の特性を活用する」という独自の発想に基づいて反応を設計され、さらにその思想を貫いて研究を展開しておられます。先生がフッ素ケミストリーに携わることになられたきっかけ、そしてフッ素の魅力についてお聞かせください。

市川先生: 私は、九州大学で小林宏先生に助手として採用していただき、フッ素化学に出会いました。当時、イオウやリン、ケイ素など元素の特性を活用した新たな合成法に関する研究が盛んに行われていました。一方、フッ素については物性研究あるいはフッ素化・誘導化反応が主な研究テーマで、置換基としてのフッ素を有機合成に利用する研究は皆無と言っていい状況でした。恩師である向山光昭先生の「浮草のような研究はするな(根のない浮草は、一見華やかなようでも流行りとともにいずれ流れ去ってしまう)。」の言葉もあって、人とは違う研究をしたかったものですから、フッ素の特性を有機合成に活用しようと考えました。
 フッ素には他の元素にはない卓越した性質があります。一つはよく知られるもので、全元素中最大の電気陰性度に由来する電子求引性の誘起効果です。つまり、フッ素は電子を引き付ける力が最も強く、隣接位(β位)のカルボアニオンを安定化します。一方、フッ素は非共有電子対を持ち、フッ素に結合する炭素(α位)へ電子供与性の共鳴効果を示します。したがって、フッ素はα位のカルボカチオンを安定化する訳ですが、この効果は炭素と周期の違う他のハロゲン元素には見られないため、しばしば誤解を生みます。こうしたフッ素近傍のアニオンとカチオンに対する電子的効果は合成化学的に非常に利用価値が高く、反応設計さえうまくすれば「反応基質の活性化」や「反応点の制御」ができます。

長崎: フッ素を置換基として利用する、特にフッ素を脱離させながら新たな有用化合物に導く研究は、市川先生が最初に行われたと認識しています。その原料化合物として当社製品であるトリフルオロエタノール(TFEA)をお使いいただいています。

市川先生: フッ素の電子的効果を活かすには、含フッ素アルケンが恰好の反応基質なのですが、当時その合成法は限られていました。その中で中井武先生は、TFEAのトシラートに2倍モル量の塩基を作用させることでジフルオロビニルアニオンが得られる、と報告しておられました。私共は、これを利用することでビニル位フッ素のβ位への置換基導入に初めて成功し、得られるジフルオロビニルボランを鍵中間体として、ジフルオロアルケン類の合成に極めて一般性の高い手法を確立しました。これが基質供給の土台となって、その後のフッ素変換を基盤とする研究の展開に繋がっていきました。 

 当時よりTFEAが工業的に入手容易な化合物であったことは、私共の研究にとって大きな後押しとなりました。こうした展開はその後の研究でも繰り返され、トリフルオロメチルアルケンやジフルオロアレンの合成と化学変換の研究では、それぞれ御社の2-ブロモトリフルオロプロペンとヨードトリフルオロエタンの存在が鍵となりました。

 

写真2(市川先生・長崎取締役)

江口: TFEAは、1985年の商業プラント生産開始から30年以上経った現在も主力製品の一つとして当社を支えています。TFEAは、主に麻酔薬等の医薬原料として使用されていますが、当社はこれを利用した誘導体の展開も進めています。最近は特殊な効果を示す反応溶媒としても注目されており、今後も伸びが期待できる製品です。このTFEAが、先生のフッ素ケミストリーの研究の起点になったことに、先生との深いご縁を感じます。

図1(TFEA用途)-1

これからのフッ素ケミストリー

長崎: 昨今、有機フッ素化合物はFガス規制(キガリ改正)、PFAS規制の課題に直面していますが、フッ素を脱離基として利用する先生のケミストリーはこうした環境問題解決のヒントにもなり得ると思います。

市川先生: CーF結合は高い結合エネルギーをもつ安定な結合であり、それが故にフロンによる地球温暖化やPFASによる生態蓄積性の問題にも繫がっています。しかし、フッ素の特性を理解しこれを利用することで、CーF結合の化学変換は可能です。従来CーF結合の活性化には、遷移金属を用いた酸化的付加過程が専ら検討されてきました。これらは、高活性な遷移金属により強固なCーF結合を切断し、次いでCーC結合を形成するものですが、CーF結合の酸化的付加は容易ではありません。そこでこの順序を逆転し、フッ素の電子的効果を利用しながらまずCーC結合を形成して、その後β-脱離過程によりCーF結合を切断する、言わば逆転の発想でCーF結合の変換も容易になります。こうして私共は、CーF結合の切断を経由する含フッ素アルケン類の効率的かつ選択的な化学変換を達成しました。これらの成果は、使用済みのフロン類等を単に再利用するのではなく、より高付加価値の新たな化合物へと変換する訳ですから、私共は敢えて「リサイクル」ではなく「アップサイクル」と呼んで達成目標としています。今後、こうしたケミストリーを更に追及していきたいと思っています。

江口: 有機フッ素化合物は現代の産業にとって必須であり、フッ素業界に限らず世の中のあらゆる産業に関連します。先生のご研究が寄与し、フッ素化合物に対する認識も変わっていくことを願っています。使用済みフロン類から様々な高付加価値化合物群が得られるような先生の「アップサイクル」のご研究は大変興味深く、当社としても注目しています。 

  当社は、CF₃Iの量産プラントを建設し商業生産を行っていますが、この製造プロセスはNEDOのご支援を受けて開発したもので、フロン類の一種であるHFC-23(CF₃H)を原料として用いることから、「アップサイクルプロセス」と見なすことができます。得られる製品であるCF₃Iは、様々な機能を有するのみならず、オゾン破壊性がなく地球温暖化係数の小さい(0.4)環境配慮型製品です。先生のアップサイクルのご研究の進展と併せて、こうした環境配慮型製品の利用が広がることも大事だと思っています。

                 図(CF3Iアップサイクル)

東ソー・ファインケムへの期待

長崎: 先生から見た東ソー・ファインケムの企業イメージ、そして弊社への期待についてお聞かせください。

市川先生: 私の研究における重要な出発物質である、トリフルオロエタノール、2-ブロモトリフルオロプロペン等を日頃より提供していただき感謝しています。御社は、海外、国内のフッ素メーカーの中で決して規模は大きくないですが、化合物・技術のニーズに対し、しっかりと応て下さるソリューションカンパニーのイメージが強いです。今後も御社の強みを活かして、フッ素産業の発展に一層寄与されることを期待しています。

江口: 企業が存続できるキーワードは、差別化と広がりだと考えています。
 当社は「Selective Fluorination」を謳い文句として、長年、部分フッ素化有機製品に関する差別化技術を構築してきました。トリフルオロエタノールやCF₃I以外にも、かつてフッ素ポリマー原料として利用していたテトラフルオロエチレンを、低分子有機合成の利用に特化した展開は特徴的と言えます。テトラフルオロエチレンを保有し安全に扱う技術が差別化のベースとなっており、様々な誘導化技術によって電子材料や機能性材料等に利用が広がっています。

若手研究者に向けて

長崎: 最後に、当社社員を含めた若手研究者に対してお言葉をお願いします。

市川先生: 企業の若手研究員の方々は、会社の将来を担うべく、日々研究開発に邁進しておられることでしょう。大きなプレッシャーを感じることもあると思いますが、実はそのプレッシャーには2種類あると言われます。アウタープレッシャーは、周囲からの要求や過大な期待として受動的に受けるプレッシャーで、本人にとってはあまりありがたいものではありません。一方、もう一つのインナープレッシャーは、自己のなかから湧き上がる、むしろ楽しいものです。インナープレッシャーを持って自発的に研究することができて、はじめて一人前の研究者と言えると思います
 但し、はじめは上司からの指示といった外からの刺激が必要で、これに必死に対応する中で自分の潜在能力に気づくものです。もしかすると、今の若い人たちはアウタープレッシャーを得る機会が少ないのかもしれません。是非、機会をチャンスとして前向きに捉え、自己の能力を目一杯発揮する「心地よさ」を知ってほしいと思います。
 これからも一層、若い方の活躍を期待し、東ソー・ファインケムの発展を祈念しております。

 

市川 淳士[いちかわ じゅんじ]

筑波大学数理物質系 教授
東京大学大学院理学博士号取得(向山光昭教授)
1985年に九州大学生産科学研究所助手に就任、その後九州工業大学助教授、東京大学助教授、仏国ルイパストゥール大学客員教授を歴任し、2007年に筑波大学教授に就任。2017~2021年年間に亘り日本フッ素化学会会長に就任。2015年に日本化学会「学術賞」、2018年に有機合成化学協会「有機合成化学協会賞」受賞

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